合気道開祖 植芝盛平という人
合気道の開祖である植芝盛平は、はじめ起倒流柔術と新陰流剣術を学びました。
その後、兵役についた植芝は、日露戦争に従軍。
その間、後柳生心眼流柔術で免許を得、さらに兵役を終えたあと、北海道の原野開拓民として移住し、開拓村で農業を指導しながら、大東流合気柔術を学び、「植芝塾」を開きました。
はじめは、合気道ではなく合気武道という呼び名が使われていました。
力ではなく理合いで相手を倒す合気の技術を基本にした武術ということです。
合気武道は、軍の将校等を中心とした、軍人や財界人に広まりました。
この時点では、まだあまり一般的な武道ではなかったのです。
ですが、その後合気武道を離れた植芝は、独自に「皇武会」を発足し、数年後、東京の新宿区に道場「皇武館」を開き、自らの武術を「合気道」として、一般に広める足掛かりとしたのです。
皇武会は、その後合気会と改称され、植芝は、合気道の普及に尽くしました。
植芝盛平は神道に熱心であることも知られ、南方熊楠の神社合祀策反対運動に共鳴し、晩年には茨城県の笠間市(当時は岩間町)に合気神社を建立するなど、非常に活動的でした。